似ているようで、全然違う「恭倹」と「謙虚」

2020年9月20日日曜日

道徳常識

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 最近、SNSで「謙虚の美徳」を推奨する話が良く流れてくる。


私は以前から「謙虚の美徳」という概念が嫌いだ。


人間の営みはどうしても「意見や考え方の違い」が生じるので、衝突は避けられない。


民主主義は「意見や考え方の違い」が生じたときに、一々暴力で相手を屈服させるのではなく、多数議論を重ねた末「判事の判決」か「多数決による投票」で結論を決める社会の統治形態だ。


民主主義社会では、自分が重要だと判断した案件に関しては「自己主張」する事が重要になる。


全体主義や社会主義国家なら、権力者の命令や指導に従っていれば良いのかも知れないが、民主主義社会では服従は美徳ではない。


だから「言論の自由」が尊重されるし、「議論」を重ねる事が重んじられる。


私には「謙虚の美徳」という概念が「議論」や「民主主義」を否定しているように感じられていて、長い間好きになれなかった。


また、謙虚に振る舞っていても、舐められて搾取されるだけで、全然良い事はなかった。

何もかも奪い取られて、最後は命まで失いそうになった。

「謙虚」など自殺行為ですらあると思っている。


だから、私は何年も前に「謙虚」を捨てた。


道徳というものは「幸福になる法則」の事であり、その道徳に従って生きて幸福になれないのなら、その道徳は偽物である。


また、道徳は法則であって規則ではないので、罰則はない。


本来、道徳は権力と結びつく性質のものではない。


私は以前から「教育勅語」の「恭倹己を持す」の部分に違和感を感じていた。

他の文面は特に間違っているとは思わないのだが、この部分だけ違和感を感じていた。


教育勅語の文面は全体を通して「自分の判断で行動しなさい」という内容になっており、「他者の言うことを聞きなさい」という文言は出てこない。

教育勅語の締めの文言は


「斯ノ道 ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺 訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵 守スヘキ所

之ヲ古今ニ通 シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕 爾臣民ト俱ニ拳 々服 膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾 フ」


になっており、現代語訳では、


「このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。

私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)って います。」


つまり、天皇陛下自らが実践するから、国民も一緒にやりましょう、という内容なのだ。


天皇陛下は日本では最高位の存在であり、天皇陛下より上の地位は存在しない。


したがって、天皇陛下は誰かの命令を受けることはないし、その天皇陛下が実践する道徳に「他者の言うことを聞きなさい」という教えが存在するわけがない。


しかし「恭倹己を持す」の部分だけ、他と合わないような気がしており、何年かモヤモヤしていた。


ただ、最近「恭倹」が「謙虚」と同じならなぜ「謙虚」という言葉を使わないのか、と疑問に思い、「恭倹」と「謙虚」の意味を調べてみた。


すると、「恭倹」と「謙虚」はまったく違う意味の言葉だった。


「恭倹」とは


「恭倹」の「恭」とは「うやうやしくする」という意味であり、相手を敬って、礼儀正しく丁寧に扱う事を意味する。

つまり「相手に対して敬意を表する」という意味の言葉だ。


「恭倹」の「倹」とは、第一に「節約する」という意味合いがあり、二次的に「慎ましくする」「控えめに振る舞う」という意味で用いられている。


つまり「恭倹」とは「相手の尊厳や意志を尊重し、敬意を表し、相手の領分に出しゃばらないように、控えめに振る舞う」という意味の言葉である。



「謙虚」とは


「謙虚」の「謙」とは「へりくだる」「控えめにする」という意味の言葉だ。


「謙虚」の「虚」とは「空虚なこと,空っぽである」「中に物が入っていないこと,虚ろ」という意味の言葉だ。


つまり「謙虚」とは「自分を低く位置づけ、謙り(へりくだり)、自己の意志や考えを否定して、空っぽにして、控えめにしなさい」という意味の言葉である。


これはほとんど「奴隷根性」と言って過言ではないと思う。



「謙虚」は民主主義を否定しているが「恭倹」は肯定している。


言葉の定義を見る限り、


「恭倹」は「自分の意志や考え方」を否定する概念ではない。

「自分の意志や考え方を尊重しつつも、相手の意志や考え方も尊重しなさい」という意味になる。

また、「相手の領分を浸食しない」という意味もある。

これはひっくり返すと「自分の領分を浸食させない」とも解釈できる。

奴隷や服従とは縁の無い概念だ。


一方、「謙虚」は「自分の意志や考えの存在を否定して空っぽにして、自分の地位を貶めて謙り、控えめにしなさい」という意味で、完全に「自分の意志や考え方」を否定する概念だ。

奴隷的な服従を要求する概念である。


言い換えれば「恭倹」は個人の尊厳を尊重する概念だが、「謙虚」は個人や「近代的自我」を全否定する概念であり、民主主義の否定にも繋がる「危険」とも言える概念である。


どうして「謙虚の美徳」などという概念が広められたののだろう。


恐らく戦後の日教組に代表される左翼教育の延長で生まれたのではないかと思っている。


あと、工場労働者を育成するには「謙虚」とは都合の良い概念でもある。


結局、日教組教育と工場労働者を必要とした戦後経済の都合が結びついて、「謙虚の美徳」が推奨されるようになったのだろう。


現代は製造業従事者は25%ぐらいしかいない。

また、製造業でも工場労働者は一部に過ぎない。

機械により生産性が向上したので、工場労働者を昔ほど必要としない。

経済の7割はサービス業だ。


経済の都合と「謙虚の美徳」が結びつく時代でも無い。


個人的には昔の「恭倹己を持す」の概念に戻した方が良いと思う。


「謙り空虚になる」必要は無い。


人の言うことなどに従う必要はない。


人の話を尊重する必要はある。


しかし、自分を殺し空虚になる必要はないと思う。


そして自分も主張すべきだろう、相手を尊重するのと同じだけ自己も尊重すべきだ。

「恭倹己を持す」とはそういう意味だと思う。


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