勉強と学習は違う

2019年4月13日土曜日

閑話

t f B! P L

以前、「ITエンジニアは時間外でも勉強するべきなのか?」というテーマで以下のブログ記事がSNSで炎上したことがある。


この記事を書いた米村 歩 氏はシステム受託開発会社の創業社長で従業員が完全に残業を行わない「残業ゼロ」マネジメントを実践して高い成果を上げている人物だ。

「残業ゼロ」なので人材を集めやすく優秀な人材の獲得に成功しているそうだ。
また、「残業ゼロ」を実現する為に質の悪い顧客の要求を断ることで、良客だけが残るというプラス要因も起きるそうだ。

待遇も環境も悪いSIer業界の中では、優れた成果を上げている数少ない例でもある。

上記の米村氏の記事は公開されてから、「時間外に勉強を強要するなら時間外手当を払え」「長時間労働で勉強時間が取れない人も居るのに無理なことを言うな」「子育てや介護などやることが他にもあるのに私生活の時間利用を強制するな」といった反論が多数、SNSなどで発信され賛否両論で大騒ぎとなった。

正直なところ、私としては時間外にITの勉強する余裕のある人はやれば良いし、時間がないのなら時間を取れる会社に転職すべきだと思う。
デフレ不景気の時代は転職は難しかったが、今の雇用情勢なら可能だろう。
子育て介護などで忙しいなら中々勉強はできないと思うが、そういった人生の「繁忙期」というものは永遠に続くものではないので、暇になるまで待てば良いと思う。
また、時間外にITの勉強したくないほどITが好きではないのならば、別の好きな仕事に職業替えしたほうが良いと思う。
これもデフレ不景気では難しいが現在の雇用情勢なら可能だろう。

私の世代は睡眠時間も確保するのが難しいほど超過労働が当たり前だったので、時間外に勉強することは不可能に近かった。
「時間外は寝る時間」以外の何物でもなかった。
通勤時間に読書して凌いだが。
20代30代の知識は仕事中か電車内読書で身につけた物ばかりだ。

私の世代と現在の若い世代は環境が違いすぎて、こういった点では比較できないのだ。
ネット環境の発達した現在ではアクセスできる情報や書籍の量が比較にならないほど多い。
別の国と言っても過言ではない。

私の意見は本筋ではない。
本題に入る。
(前フリ長すぎた)

米村氏の記事に対する違和感

米村氏の記事に書かれている事は大筋正しいと思う。
しかし当初何かよく分からない微妙な違和感を感じていた。

最近、その理由が分かったので説明してみたい。

技能習得のプロセス「守破離」

何らかの技能を習得するプロセスは三段階に分かれる。
日本では「守破離」という言葉で表される。

「守」の段階は、師匠の教えを忠実に守り、異論を挟まず師匠に従う段階。
「破」の段階は、師匠のやり方に疑問を感じ、異論を発し、新しいやり方を導入し、より良いやり方を模索する段階。
「離」の段階は、師匠のやり方とは異なる、新しい流派を自分で作る段階。


これと同じプロセスを哲学者のニーチェも説いているそうなので、人間の成長の普遍的なプロセスなのではないだろうか。


ニーチェは「駱駝(らくだ)・獅子・幼子」という表現で「守破離」の三段階を説明している。
駱駝が守、獅子が破、幼子が離となる。

指揮命令権の視点から、「守破離」を見ると、「守」は師匠に指揮命令権があり、弟子は忠実に師匠に従う必要がある。

「破」は弟子が師匠に逆らい反抗しつつ独自のやり方を模索する状態になる。
指揮命令権で言えば、仕事が出来るようになった部下がだんだん上司の言うことを聞かなくなり、独自のやり方で仕事を進めるようになる状態に近い。

「離」は完全に独立して指揮命令権を100%弟子が握っている状態である。

仮に技能の習得が独学であったとしても、最初の「守」の段階では教科書に書かれている事をそのままマネして技能を習得するはずだ。
従ってこのプロセスは正しいと思う。

勉強と学習は違う

ネットを検索すると「勉強」と「学習」は違うという意見はよく見られるがその定義は結構バラバラだ。





共通点を纏めると、
「勉強」は、学問だけを対象とし、意識的に努力して身につける行為、「強い勉める」。
「学習」は、人生経験すべてを対象とし、経験から無意識的に身につける行為、「習い学ぶ」。

これらを見ると「勉強」という言葉は知識が体系化され教科書に纏められた抽象的知識を覚えることを意味し、「守破離」の「守」に相当する概念と言える。
「学習」という言葉は体系化されていない無秩序な自然界や社会から経験的に「真理」を能動的に取捨選択して学んでいくことを意味し、「守破離」の「破」と「離」に相当する概念と言える。

意志決定権は「勉強(強い勉める)」は、師匠か教科書にあり自分自身にはない。
「学習(習い学ぶ)」は意志決定権が自分自身にある。

「勉強」という言葉には暗に自由の放棄という意味がある

米村氏の記事に感じるよく分からない違和感は「勉強」という言葉に付随する「強制性」から感じる無意識の拒否反応なのではないかと思う。
米村氏は普段から超過労働を強いるブラック企業を批判している。
ブラック企業を批判しているが故に、米村氏の言葉を聞くとブラック企業を想起してしまう。
ブラック企業は従業員の自由を剥奪する。
従業員の権限は取り上げるが、責任は従業員に押しつける。
「自己責任」というスローガンと共に。
「自己責任」は無責任経営を象徴する言葉になってしまった。

米村氏の「エンジニアは業務時間外でも勉強するべきなのか」という言葉から「ブラック企業が業務時間外の時間を勉め強いる」と感じてしまうのではないかと思う。
米村氏自身はブラック企業ではないし、上記の記事の内容も「勉強は人にやらされるものではない」と書かれていることから「勉め強いる」ことを意味していないのは明白なのだが、「勉強と学習」の違いを意識しておらず、意志決定権や指揮命令権の点が整理されていないので、この点で誤解を招きやすい記事になってしまったのではないかと思う。
記事中にも「私は以前は従業員にプライベートな時間をスキルアップに使え!とかなり口酸っぱく言っていました。」という指揮命令権の点で混乱する表現が見られる。

つまり違和感の正体は、業務時間外に「勉強や学習をするか否か」の点ではなく、「意志決定権は誰にあるのか」という点にあるのだ。

「勉強」を「学習」に置き換えれば良いだけ

結論として、
「エンジニアは業務時間外でも勉強するべきなのか」という記事は
「エンジニアは業務時間外でも学習するべきなのか」と変えれば良いだけだ。

「勉強」という言葉は体系化された知識の習得だけを意味するので、無秩序な社会から広く知識や仕事や生き方を学んでいく社会人にはあまり相応しくない言葉かも知れない。

「勉強」と「学習」の違いはもう少し意識した方が良いかも知れないと思った。
そこには「自由の有無」があるから。





簡単な短い記事にしようと思ったが、結構長くなったなー


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オッサンです。実務経験は Windows環境にて C#,VB.NET ,SQL Server T-SQL,Oracle PL/SQL,PostgreSQL,MariaDB。昔はDelphi,C,C++ など。 趣味はUbuntu,PHP,PostgreSQL,MariaDBかな ?基本無料のやつ。

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