自己愛と自尊心についての私の認識

2018年10月3日水曜日

道徳常識

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人間関係構築の為に、自己や相手の人格を評価するに当たって必要となるモノに「自己愛」と「自尊心」という概念がある。

「自己愛」は否定的な意味で使われる。
自己愛の強い人はプライドが高く、常に偉そうで他者を見下し、優越感を得るために立場の弱い者を貶める。
自己評価は甘いが、他者評価は厳しく、評価基準に一貫性がない。
他者と対等な関係を構築できず、上下の関係しか結べない。上には媚び諂い下には威張り散らしたり精神虐待する。
酷くなると「自己愛性パーソナリティー障害」という疾患になる。
モラルハラスメントの加害者もおそらくこのタイプだろう。

「自尊心」は逆に肯定的に扱われる。
自分を大切に思ったり、自分の判断は正しいと信念を持ったり、自分の行為には価値がある、或いは意味がある、と考える思考のことだ。
「自信」や「自己肯定感」の裏付けとなる思考でもある。


「自己愛」は強すぎると有害であり、「自尊心」は弱すぎると有害である。

心理学ではここまで説明されている。
しかしこの説明では分からない部分がある。

「自己愛」と「自尊心」はどちらも「自分を肯定する」思考だ、両者は何が違うのか?

という点である。

心理学的な説明でも
「自尊心が強すぎると自己愛性パーソナリティー障害のようになる」
「自己愛が弱すぎると抑うつや自己否定感や自傷行為が生じる」
しいうように自尊心や自己愛が「良いモノなのか悪いモノなのか」よく分からない形で説明されることがある。

心理学の教育は受けていないし専門知識も無いが、心理学的説明で自尊心と自己愛の違いについて明快な説明が見当たらない。

私も40代になるまで自尊心と自己愛の明確な違いが分からなかった。

仏教で説明できる自尊心と自己愛の違い


40歳になったころ初期仏教の書籍にハマったことがある。
小池龍之介氏とアルボムッレ・スマナサーラ氏が主だ。
小池龍之介氏が5冊ぐらいでアルボムッレ・スマナサーラ氏は30冊以上読んでいると思う。
今はあまり読んでいない。自分である程度納得できたからだ。

自尊心と自己愛の違いは仏教の考え方と心理学的な考え方を組み合わせると明確な説明が出来る。

仏教では「自我」の存在を否定している。

自我とは「私」という認識であり「他者と自己の区別」である。
仏教では「統一された私」という存在を否定している。
人間の心は、神経から入ってきた情報に対して何らかの反応を返す、個々の生命反応の集合体である。
因果記憶によりそれぞれの「刺激に対する反応」を記憶しており、その記憶の羅列を「私(自我)」と認識しているだけだ。
その存在には実体が無く、人工的な解釈に過ぎない。

近代国家の自我


近代社会は「自我」が存在するという前提で成り立っており、「私」という概念が無ければ近代国家が成立しない。
議会制民主主義は「一人一票」である。一人の投票の意思は一つに統一されている前提だ。
資本主義は「私的所有権」を前提に成り立つ。
近代国家には「人権」という概念が欠かせない。
これが無ければ民主主義も資本主義も成り立たない。
「言論の自由」が無ければ議論が出来ないので民主主義が成り立たない。
「人権」が無ければ全ての人間の私的所有権が成り立たず、最悪は人間を商品として売り買いすることまで成立してしまう。
「消費者の自由選択による社会資源の最適配分」を目指すのが資本主義なのだから消費者に自由が無ければ、成立どころか稼働しない。配分が出来ない。

だからデカルト以降は「近代的自我」というものを尊重してきた。

「近代的自我」は実体の無い「解釈」である。
丁度、資本主義の「通貨」と同じで、それ自体には実体は無く、国家の信用によって存在するものと解釈された「約束事」である。「プロトコル」のように実体は無いが存在するものと仮定すると役に立つ。

「自我」というモノは「文字」が登場してから誕生したそうだ。
それ以前の人類には「自我」が無かったという。

つまり「自我」や「近代的自我」は人類の創造物であり、自然の産物では無い。

智惠と無明と自我


「自己愛」と「自尊心」の「自」は「自我」である。
仏教的に考えれば厳密には「自己愛」も「自尊心」も存在しないことになる。
ただ、仏教では「自我」を「煩悩」としてとらえており、煩悩として存在を認めている。

仏教では「自我」に相当する概念を二つに分けて考える。
「智惠(ちえ)」と「無明(むみょう)」である。
自我の中に智惠の領域と無明の領域があると考える。
智惠とは自我の中で「真理を理解した領域」のことである。
無明とは「それ以外の領域」である。
つまり「真理を理解していない領域」のことだ。
「真理」とは特別なものでは無く。「大自然の法則」のことだ。
学問の世界では「自然科学」が真理だ。
「ピタゴラスの定理」や「質量保存の法則」、「エネルギー保存の法則」や「オームの法則」、これらは全て「真理」である。
仏教では「諸行無常」が究極の真理であるがこれは「全ての物は変化し続け留まるものは何も無い」という意味で科学的にも矛盾しない。
仏教は論理的な内容なので他の宗教のような「信仰」は無い。
宗教というより釈迦(ブッダ)の哲学(論理学・心理学・宇宙論)である。

「エネルギー保存の法則」を理解して「水力発電」を説明できればその部分の心は「智惠」である。
「アルコールは燃える」「みりんはアルコールを含む」という理解が無く、フライパンで調理中の野菜にみりんを注いで炎上してびっくりするのは「無明」である。

智惠の部分には自我が無い。
「エネルギー保存の法則」は私の物では無いのは自明だからだ。
真理は誰の物でも無く大自然全体で共有されている。

自我は主に無明の部分に宿る。

自尊心は智惠である


自尊心という言葉をそのまま解釈すると「自分を尊敬する心」という意味になるが、おそらく本当に自尊心のある人は特に自己を尊敬したりしていないと思う。
彼らはただ単に自己と周辺の社会を理解しているだけだと思う。
「あーすれば、こーなるだろう。だから私には出来るだろう」
このような認識が「自尊心」なのでは無いだろうか?
そしてこのような認識が生じる背景には、自己の能力や特性に関する深い理解と、周辺環境に関する理解があるのではないか。
この様な心は明らかに「智惠」である。
つまり「自尊心は智惠から生じる」と表現できる。
更に言い換えれば「自分を尊敬する心」という意味での「自尊心」と言うモノは存在せず、その実体は「智惠」である。
とも表現できる。
自尊心という言葉は智惠のある人を外から観察した言葉であり、当事者の言葉では無いのかも知れない。

なぜ自我が必要か


人類は非力な身体ながらも社会を形成することで自然界の生存競争を勝ち残ってきた。
少人数の集落ならば集団と個体を厳密に区別する必要は無かったかもしれないが、文字の発明により社会が複雑巨大化してくると社会の意思と個人の意志を区別する必要が出てくる。

小さな集落ならリーダーが収集した食料を独り占めすれば「ふざけんな、オレにもよこせ」で済んでしまう。集団の意志はそれほど明確ではなかった。
近代社会では巨大な社会を言葉で統治する必要がある。法治国家である。たとえ専制君主でも人治国家でも君主が法を書くことで民を治める。法治国家は民が法を書いてる点が違うのだ。
大きな社会は法が無ければ統治できない。
法が生じることで社会の意志と人格が現れる。
社会を構成する民は自分の意志や人格と社会の意志や人格を区別する必要があったのではないか?
現在でも日本国の意志と国民個々人の意志は違う。
近代的自我が無ければ政治的に国民生活が送れないだろう。

自我が生じるのは「自己を守る為」と「人格を持った社会と共存する為」の二つの理由があると思う。

自我はあくまで「社会と共存する為の道具」であり「自分を守る武器」でもあるが、それ以上の意味は無いと考える。

目的と手段を取り違える


人間は目的と手段を取り違えることが良くある。

大東亜戦争など良い例で、満州国建国までは「ロシアの南下を防ぎ日本を守るため」として理解できるし、目的と手段に一貫性があったが、その後の中華民国との戦争は何を目的に戦っているのかまったく分からない。
当時の中華民国に日本を侵略する力は無い。
満州防衛が目的なら、黄河以北の地域を占領して緩衝地帯にすれば良いではないか。
なぜ南下を続けたのか分からない。
もはや日本を守る為に戦争しているのではなく戦争の為に戦争しているように見える。
少なくとも目的と手段が一致しているように見えない。
手段が目的になっている。

戦争最後の神風特攻隊は異常だ。国民の命を守る為に戦争してるのに、国民の命を犠牲にして戦争を継続しているのだ。目的と手段が違うどころか本末転倒だ。

市場メカニズムにおける通貨の使い方も同じような側面がある。
通貨は価値を数値化したもので、価値を交換するのに便利に作られた道具である。
通貨それ自体に特別な便益は無い。金融機関のシステムに書き込まれた只の数値である。
しかし金自体を目的に生きている人が時々存在する。

ケチで有名なお婆さんの話を聞いたことがある。
食費を節約するために不健康なほど貧しい食事をし、人間関係を破壊するほどサービスの対価を払い惜しみ、自分の息子の治療費すら払い惜しんで息子は死にかけた。死後は大変な財産を残したそうだ。
残された息子はその財産で盛大に豪華な葬式をしてやったそうな。
さぞかしあの世で悔やんでいることだろう。

この話はホントの話かどうかは分からない。
しかし社会に多数存在する「拝金主義」を象徴する話だ。
本来「価値を交換する」為に存在する通貨を、まるでそれ自体に価値があるかのように振る舞う。

人間はあらゆる面で仕事をしている内に、当初の目的を忘れ、手段が目的になってしまうことが良くある。

自分を守る為の自我が目的になってしまう


先に説明したように自我は「社会と共存する為の道具」であり「自分を守る武器」である。
あくまで自我は「道具」である。
そしてその道具は「通貨」や「プロトコル」のように実体の無い「約束事」である。

「自己愛」というのはこの「本来は道具であるべき自我が目的になってしまったモノ」ではないか、と思うのだ。
本来「自分を守る為」が目的の自我が、「自我が存在すること自体」を目的にしてしまっている状態が、自己愛なのではないか。
「他者を貶めてでも自己の優越性を誇示する」
「社会性や信用を失ってでも目先の勝ちに拘る」
「部下や妻を失ってでも下位者から搾取する」
「軽蔑されてでも成功者を貶める」
これら自己愛の強すぎる人々の性質は「本来社会と共存し、自己を守る為にある」はずの自我を、道具としてではなく「自我そのものの価値を高める」為に生きているように見える。

つまり彼らは自我が何のために存在しているのか忘れている。
道具の自我が生きる目的になっている。

智惠から自尊心が、無明から自己愛が生じる


先に説明したように自尊心とは「智惠」である。
自己や社会に対する理解のことだ。

自己愛とは「自我は人類の作り出した道具」であるという真理(というか事実)を忘れ、自我それ自体が真理のように振る舞う「無知」である。
よって自己愛は「無明」である。


人の人格面を評価する基準


人格に問題のある人というのは非常に沢山居る。
「嘘を付く」
「他者の名誉を傷つける」
「部下の手柄を横取りする」
「同僚に罪や失敗の責任をなすりつける」
等々、切りが無いぐらいある。
普通の良い人の中にも正確の一部に問題のあるのは普通である。
実害が小さいから問題視しないだけである。

この人格面の善し悪しを判断する基準として「自尊心」と「自己愛」の心のバランスを観察するのは、意外と有効なのではないかと思っている。

「道徳」というのは「人が幸福になるための方法論」或いは「人が不幸にならない為の方法論」である。
「道徳」が根拠にしているのは「真理」である。(真理には科学も含まれる)
「智惠」は「真理に対する理解」である。
そして「自尊心」は「智惠」である。

相手が人格者かどうかを判断するなら、その人が「真理」に適った行動をしているかどうかで判断すれば良いのではないか? と思っている。



最後に話が逸れるが「科学的に正しい道徳とは何か」ということを考える上で参考になる、面白い書籍を紹介する。

橘玲氏の「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」という本である。

「努力することに科学的意味はあるか」
「与える者と奪う者、生存競争で勝つのはどちらか」
などユニークな研究の成果をいくつも紹介している。

伝統的道徳に疑問を感じている方にお勧めします。


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オッサンです。実務経験は Windows環境にて C#,VB.NET ,SQL Server T-SQL,Oracle PL/SQL,PostgreSQL,MariaDB。昔はDelphi,C,C++ など。 趣味はUbuntu,PHP,PostgreSQL,MariaDBかな ?基本無料のやつ。

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