聞き手責任か話し手責任か

2018年9月11日火曜日

道徳常識

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私も長いこと、いくつかの企業で働いてきて「これは非効率な慣習だな」と思うものはたくさん有る。
その中で今日は「コミニュケーションの責任」について考えたい。

海外はどうか知らないが日本企業では人に物事を説明する時に「聞き手」が「コミニュケーションの責任」を担うことが大多数を占める。
説明したことを相手が理解できなかったり、認識できず覚えられなかったりした場合、「聞き手」が悪いことになる。

しかし私の経験上、話が伝わらない責任の8割方は「話し手」の説明に原因がある。

例えば、

「話し手」の説明が十分に整理されていない。

全体から部分へ、概要から詳細へ、といった説明の基本を熟知しておらず、最初からずっと詳細の話ばかりしている。
その為「そもそも何の話なのか」分からないことがある。

「対話」をしないで一方的な「独り言」のように説明する。相手が理解できたか確認もしないでラジオのように「垂れ流し」の説明をする。

そもそも必要な説明を全て行っていない。

こういうレベルの説明をする人が企業には非常に多い。

明らかに「話し手」が悪いにもかかわらずコミニュケーションに失敗すれば「聞き手」が悪いことになる。
「話し手」側が無駄に傲慢で無責任なのだ。

「聞き手責任」の弊害

本来コミニュケーションの責任は「話し手」と「聞き手」の双方にある。
話が通じなければ双方に責任がある。
しかし職務の現場では時間が限られる為か、双方の責任の可能性について考え「原因究明して改善する」という手順は省略される。
そして一方的に「聞き手が悪い」ことにされてしまう。
これが条件反射のように習慣に焼き付いているようだ。

「聞き手責任」のコミニュケーションには弊害が大きい。

企業社会で原因を客観的に俯瞰して不具合の原因を理解して改善できるような人は少ない。
只の「説明」だけでも「話し手」と「聞き手」のどちらが悪いか第三者視点で判断できる人は希だ。
しかし「説明」が上手く伝わらないとき「話し手」と「聞き手」のどちらが悪いか判断しなければ先に進めない。そこで多くの場合は無条件に「聞き手」が悪いと判断されてしまう。これは多分「考えるのが面倒くさい」からだと思う。

まあ、考えたところで判断力が無いのだから無駄なのだが、無条件に「聞き手が悪い」と考える「慣習」は弊害が大きい。

説明が改善されない

コミニュケーションの失敗の原因は「話し手」と「聞き手」のどちらにもあり得るのだが、「聞き手責任」なら「聞き手」に原因がある場合は改善される。
しかし「話し手」に原因がある場合は改善されることが無い。原因の存在自体が認識されないのだから反省もしないし改善もするはずが無い。
そして「聞き手に原因がある」という前提で原因を究明し改善しようとする。当然聞き手の中に原因など有るわけ無いので、原因は分からない。そこで何をするかと言えば「原因をでっち上げる」のだ。
「話し手」が良心的な場合に良く行われるのが「聞き手は頭が悪いか、基礎的なことが分かっていない」と判断し「とても基礎的な説明からやり直す」というものだ。
「基礎から説明してくれるなんて良い人だろ、何が悪いのだ?」と思うかも知れない。
これはちっとも良くないのだ。問題の原因が全く改善されていないので基礎から説明したところで説明は伝わらない。
例えば「必要な説明が一部欠落している」のが原因だとすると「欠落」部分を説明しない限り伝わらない。基礎から説明したところで只の遠回りでしかない。
「聞き手」は欠落の存在自体を知らないので質問すら出来ない。

責任者が責任を取らない

「聞き手責任」では説明が伝わらないことによって業務上の失敗が起こったとしても、本来の責任者である「話し手」の責任が問われることは無い。
安全基準の説明不足で事故が発生しても責任を問われるのは事故を起こした「聞き手」である。
「話し手」はどんなにいい加減な説明をしようと責任を問われることは無い。
結果として組織の中で「責任者が責任を取らない」体質が出来上がっていく。

聞き手が質問しなくなる

説明を理解できないと「聞き手」が責任や能力を問われるような社会・組織では、「聞き手」は分からない時に質問しなくなる。
自分に非があろうと無かろうと常に「聞き手」が悪いことになるのならば理解しようと努力すること自体が無駄である。だから「聞き手」に回ったときは「分かったつもり」で適当に仕事に取り組んでしまう。どうせ失敗の責任は無条件に「聞き手」が取るのだから、さっさと結果を出し失敗なら責任取ってやり直す。という仕事スタイルが定着する。
誤解の無いように言っておくが「話し手」と「聞き手」という階級があるわけでは無い。
どんな人間でも「話し手」にも「聞き手」にもなるので常に失敗の責任を一方的に取らされる差別階級が存在するわけではない。誰でも「聞き手」になった時に責任を問われるのだ。
従って「話し手」になったときは責任を「聞き手」に押しつけ、「聞き手」になったときは責任を引き受ける。という一応公平な慣習ではある。
不健全だが。

やがて話し手も説明しなくなる

「話し手」が責任を問われない環境では人はだんだん説明をしなくなる。
失敗したところで責任取るのは「聞き手」であり「話し手」はどんなに手抜きをしたところで責任を問われないのだから説明に必要なリソース(時間・労力など)を削り、「聞き手」になった時に責任を取る方にリソースを回してしまう。
やがて組織の中では「誰も必要な説明をしない」慣習が広まっていく。
失敗の責任は「聞き手」が取るのだから、皆一生懸命「聞き手」をやるようになる。
日本人の「無口」「謙虚」「空気を読む」「事なかれ主義」といった美徳は「聞き手責任」によってもたらされているのではないか? と思うこともある。

コミニュケーションの堕落へ一直線に向かう

コミニュケーションは「説明」の品質を高めなければ良くなることは無いと思うが、現在の企業社会の慣習にそのようなモノは無いと思う。
結果としてコミニュケーションの質は悪化する一方に見える。

学校教育から始まる「聞き手責任」のコミニュケーション

「聞き手責任」の慣習の原因はおそらく学校にあると思う。
学校の教師の中にも講義や説明の下手くそな人間は多い。
「声が小さく滑舌が悪い」為に何を言っているのが分からない教師は山ほどいる。
しかし「生徒は教師に逆らってはならない」という暗黙のルールにより「聞き手」の生徒は教師に苦情を申し立てることができない。
このような教育を12年以上も続けていれば「聞き手責任」が骨身に染みついてくる。
「質問」することも「主張」することも「悪いこと」とされ、議論のような「対話」が出来なくなり「独り言」のぶつけ合いのようなコミニュケーションが蔓延する。

コミニュケーションは「話し手責任」の方が効率が良い

コミニュケーションは「話し手」と「聞き手」のどちら側にも非がある可能性があるのだから、本来は「公正な第三者」により裁定を下すのが望ましい。
しかし日常の会話で一々それをやってはいられない。コミニュケーションにコストと時間が掛かりすぎる。
だからデフォルトでどちらが責任を取るか決めておいた方が良い。
そういう意味では私は「話し手責任」の方が良いと思う。

コミニュケーションの成功確率を高めるのなら第一にやるべきは、「説明」の品質を向上させることだ。これ無しにはどんな努力も無駄だ。
説明が伝わらない時、無条件に「話し手」が責任を取る慣習ならば、「話し手」は説明の品質を上げる為に最大限の努力をするようになる。
「どうせ話し手が責任を取るなら努力しても無駄だ」と諦めてしまう可能性があるかと思うが、大丈夫だと思う。「聞き手」の場合は情報を握っているのが「話し手」なので諦めるしか無くなるが、「話し手」は「聞き手」側に問題があるときは「聞き手」を変更することが出来る。
情報を「話し手」が握っている以上コミニュケーションの主導権は「話し手」にある。「情報という力」を持つ者がその「情報に纏わる責任」を担うという意味でも健全な慣習だと思う。
「話し手責任」ならば全ての「説明」の品質は向上を続ける。「聞き手」は自分に問題があれば「話し手」の説明が受けられなくなるので「聞き理解する努力」をする。仮に理解できなくても責任は問われないので気軽に質問もできるようになる。
責任の所在が自動的に明確になる。
コミニュケーションは活発になり、成功率も上昇する。
何より仕事がスムーズになり人々は少し幸福になるだろう。

責任取らない日本人

日本社会には地位の高い身分になるほど責任を取らなくなる慣習があるように思える。
だからと言って地位の低い人間が積極的に責任を取っているか、と言えば「否」だろう。
結局のところ皆で責任をウヤムヤにして誰も責任を取らない社会になっているように思える。
ビートたけし氏の言葉「赤信号みんなで渡れば怖くない」が日本社会を象徴している。

最近の例を挙げれば財務官僚による公文書偽造問題やセクハラ問題について財務省自身は特に責任らしい責任を取っていない上に体制的に何か改革した様子もない。
完全に国民を舐めているとしか思えない。

安部政権で言えば当初「三本の矢」により「金融緩和」「財政出動」「成長戦略」によりインフレ率2%を目指すと言っておきながら、第二の矢「財政出動」を行っておらず6年経っても物価目標を達成出来ていない。(インフレ率はプラス0.3%)
にも関わらず「財政出動」を拡大する様子も見られない。
それどころか景気を冷え込ませる消費税を増税しようとしている。
権力の座に付きながらこの姿勢は無責任に見える。

旧民主党政権は極端な「緊縮財政」によりデフレを悪化させインフレ率はマイナス0.5%まで行きGDPを縮減した挙げ句、さらに土木建設産業を毀損縮小したことにより自然災害からの復興能力を縮減してしまった。
しかしその後継政党である野党にはその責任意識は無く、自由党を除き全てが「緊縮財政」を訴えている。
これも相当な無責任だろう。

ブラック企業の問題や過労死などの問題が発生しても、責任者の経営者や管理者は責任を取らないし、国も責任を取らせない傾向にある。
ブラック企業の無責任についてはわざわざ説明するほどでも無いだろう。常識だ。

無責任体質からの脱却を

誰も責任を取らない社会にしたことにより最も損害を被っているのは日本人自身だと思う。
責任取らないことにより様々なものの秩序や品質が劣化しているように見える。経済もその一部だろう。

全ての個々人が自分の「説明」に責任を取れば少しはマシになると思う。

とりあえず、「話し手責任」だけでも皆で背負ってみてはどうだろうか。

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オッサンです。実務経験は Windows環境にて C#,VB.NET ,SQL Server T-SQL,Oracle PL/SQL,PostgreSQL,MariaDB。昔はDelphi,C,C++ など。 趣味はUbuntu,PHP,PostgreSQL,MariaDBかな ?基本無料のやつ。

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